2024年03月29日 21:21
「ヤクルト7−4中日」(29日、神宮球場) 中日がまさかのワンプレーからピンチを広げ、逆転を許した。九回の反撃も及ばず、痛い逆転負けだ。 1点リードの八回、先頭の村上が高々と遊飛を打ち上げた。遊撃・ロドリゲスが落下点に入ったかと思われたが、ボールを見失ったのか、横にポトリと弾んだ。グラブにも触れていなかったが記録は失策。1死走者なしが無死二塁となると、四球で一、二塁と変わり、サンタナに同点タイムリーを浴び、暴投で勝ち越し点を与えた。さらに代打・西田の犠飛、青木のタイムリーで突き放された。 打線は初回に高橋周のタイムリーで先制すると、五回には中田翔が左翼へ一時勝ち越しとなる1号ソロを放った。同点の七回には再び高橋周が勝ち越しの適時打を放ち、一塁塁上で満面の笑みを浮かべた。 昨季、高橋周は打撃不振により1軍の戦力になれなかった。ばん回を期す今季はオープン戦で結果を残し、開幕スタメンの座をつかんだ。勢いそのままに開幕戦でも価値ある2打点をマークした高橋周。中田翔とともに、2024年の新たな力が打線に好循環を生み出した。 投げては先発の柳が六回途中2失点でゲームを作ると、後を受けた2番手の勝野も1死満塁のピンチをしのいだ。勝ち試合へ流れは向かっていたが、まさかのミスで逆転を許す形となった。 九回に無死満塁の好機を作るも、中田翔が左中間へ放った打球はヤクルト・西川のファインプレーに阻まれた。結果的に守備が明暗を分ける形となり、痛い一敗を喫した。
2024年05月14日 08:02
ここまで打率.262、2本塁打、OPS.648
ジャイアンツは13日(日本時間14日)、イ・ジョンフ外野手が左肩の脱臼で10日間の負傷者リスト(IL)に入ったと発表した。12日(同13日)の試合で守備の際に肩を負傷しており、ボブ・メルビン監督は試合後に「左肩の靭帯を損傷した」と話していた。
12日(同13日)の試合では、初回2死満塁でキャンデラリオが放った後方の飛球を追いかけ、フェンス際でジャンプ。着地と同時に左肩をフェンスに強く打ち付けた。そのまま倒れ込み悶絶。チームスタッフに左腕を支えられながら、ベンチに下がった。
元中日のイ・ジョンボム氏を父に持つ25歳はKBOリーグ7年で1181安打、通算打率.340を放った屈指のヒットメーカー。今季は6年1億1300万ドル(約176億円)でジャイアンツに入団し、メジャーに挑戦。今季はここまで打率.262(145打数38安打)、2本塁打、OPS.648をマークしていた。
イ・ジョンフに代わってジャクソン・リーツ捕手が3Aから昇格した。13日(同14日)からは同地区のライバル・ドジャースを本拠地に迎えての3連戦だったが、無念の離脱となった。(Full-Count編集部)
2024年05月14日 07:50
デコピンの“表情”にファンが注目
ドジャース・大谷翔平投手の愛犬「デコピン」の“表情”が話題となっている。大谷といる時と、真美子夫人といる時の態度の違いにファンは「デコピン表情豊かでいいな」などと注目している。
大谷はこれまで何度も自身のインスタグラムにデコピンの写真を投稿。チャーター機に乗っていたり、ワインボトルをくわえたり。米メディアにはデコピンを抱っこする大谷の写真も掲載され、デコピンも“凛々しい”顔で写っていた。
ところが試合観戦中の真美子夫人といるときは完全にリラックスモード。目をトロンとさせていたり、真美子夫人の腕のなかに身を委ねたりと可愛らしい“表情”を見せていた。
大谷、真美子夫人のそれぞれといるときの様子が違って見えるデコピンに対し、SNS上には「オオタニさんといると悪ガキ感」「(真美子夫人の横だと)ペットらしい感じ」「真美子さんの横にいてくれてよかった」「デコまみは本当に幸せ者」「真美子夫人の前だとでっぷりした表情」といったコメントが寄せられていた。(Full-Count編集部)
2024年05月14日 07:40
球団カメラマンが投稿、大谷翔平とトレーナーが向き合って謎の仕草
ドジャース・大谷翔平投手が上を向き、口を開けて……。球団公式カメラマンのジョン・スーフー氏が11日(日本時間12日)のパドレス戦後に自身のインスタグラムに投稿した大谷の写真が、ファンの間で「何かの食べ方かな?」などと、さまざまな“憶測”を呼んでいる。
スーフー氏は試合中の躍動する選手や戦況を見守る大谷のウィル・アイアトン通訳など、46枚の写真を配信。その14枚目で登場したのがベンチでの大谷だった。
ヘルメットをかぶり、肘当てをつけたまま、大谷は球団のアスレチックトレーナーの中島陽介氏と向かい合い、お互いに上を向いて口を開け、親指と人差し指で何かをつまんで食べているような仕草をしていた。
謎の様子にファンも興味津々。SNS上には「勝利のポーズだ」「何かの食べ方かな」「ひまわりの種を食べている?」「カニの食べ方?」「これは寿司食うポーズです」「お薬飲むポーズかな」などと想像を膨らませていた。(Full-Count編集部)
2024年05月14日 07:30
MLB公式インスタグラムが4歳当時の大谷翔平と母・加代子さんの2ショットを公開
MLB公式X(旧ツイッター)は12日(日本時間13日)、「Mother’s Day(母の日)」に際し、選手たちと母の2ショット写真を投稿。
2024年05月14日 07:11
球団発表…3Aで防御率14.09と苦戦
メッツは13日(日本時間14日)、藤浪晋太郎投手が右肩の張りで15日間の負傷者リスト(IL)に入ったと発表した。ここまで9試合に登板して0勝0敗、防御率14.09と苦戦。3日(同4日)の以降は登板がなかった。
メジャー2年目の今季は、2月14日(同15日)に年俸335万ドル(約5億2000万円)プラス出来高でメッツと契約。しかし、スプリングトレーニングでは5試合に登板して0勝1敗2ホールド、防御率12.27と結果を残せず、マイナー3Aで開幕を迎えていた。
4月25日(同26日)の試合は1回持たず6失点(自責3)でノックアウト。前回登板となった3日(同4日)は2イニングを投げて被安打1、4四球2奪三振2失点だった。(Full-Count編集部)
2024年05月14日 06:45
敵地・ジャイアンツ戦に「2番・指名打者」で出場
■ジャイアンツ ー ドジャース(日本時間14日・サンフランシスコ)
ドジャース・大谷翔平投手は13日(日本時間14日、10:45分開始)、敵地・ジャイアンツ戦に「2番・指名打者」で出場する。前日12日(同13日)の敵地・パドレス戦は腰の張りで欠場していたが、2試合ぶり復帰となった。また、山本由伸投手が先発登板する。
大谷は11日(同12日)の敵地・パドレス戦前に腰に張りを感じたという。同日は「2番・指名打者」で出場していたが、無安打で迎えた9回の第5打席で代打を送られ途中交代。翌12日(同13日)は欠場していた。
デーブ・ロバーツ監督が13日(同14日)のジャイアンツ戦での復帰を示唆していた。この日、無事にラインナップに名を連ねた。
また、山本は前回登板のマーリンズ戦で自己最長8回を投げ5安打2失点。自身4連勝、本拠地初勝利を挙げた。ここまで4勝1敗、防御率2.79。対するジャイアンツは剛腕ジョーダン・ヒックス投手が先発登板する。(Full-Count編集部)
2024年05月14日 06:45
オリックスのアンダーソン・エスピノーザ、ヤクルトのミゲル・ヤフーレと新助っ人2人が揃って開幕3連勝を記録し、注目を集めている。
だが、過去には、開幕直後に活躍し、「これは期待できそうだ」とファンを喜ばせたにもかかわらず、その後は尻すぼみだったり、突然帰国してしまった助っ人も少なくない。
NPB史上初の開幕戦の来日初打席で満塁弾をかっ飛ばしたケビン・ミッチェル(ダイエー)や“神のお告げ”で電撃引退したマイク・グリーンウェル(阪神)が有名だが、ほかにも「ああ、そんな選手もいたなあ」とちょっぴり懐かしくなる助っ人たちを振り返ってみよう。
◆ “メッセンジャー2世”にはなれず
開幕から2連勝を記録しながら、以後、1勝もできずに終わったのが、2017年にDeNA入りした201センチの右腕、フィル・クラインだ。
メジャー通算40試合で2勝3敗も、前年3Aで5勝1敗、防御率1.52と好投したことが買われ、巨人にFA移籍した山口俊の穴を埋める先発要員として、推定年俸1億5000万円で入団が決まる。
春季キャンプ中の2月18日の練習試合、中日戦で5回から来日初登板したクラインは、長身からの角度のあるスリークォーターから150キロを超える速球と切れのある変化球を武器に3者連続三振で即戦力をアピール。
アレックス・ラミレス監督も「(198センチの)ランディ・メッセンジャー(阪神)に似ている。二桁は必ず勝つ。(この時期に)そう思ったのは初めて。体が大きくて(球は)新幹線が来る感じ。自分が打者でも苦戦する」とベタ褒めだった。
そして、シーズン開幕後、4月1日のヤクルト戦で先発したクラインは5回を4安打1失点に抑え、来日初勝利。さらに同16日のヤクルト戦でも4回に自ら逆転2点タイムリーを放ち、投打にわたる活躍で開幕2連勝。休暇で来日していたリンリー夫人の美貌も話題を呼んだ。
だが、登板7試合で25与四死球という制球の悪さから、5月27日の阪神戦で6失点するなど、3連敗して6月3日に2軍落ち。さらに右肘痛を訴え、8月7日、治療のため帰国したが、チームが日本シリーズに進出しても復帰することなく、自由契約に。“メッセンジャー2世”にはなれなかった。
油絵が趣味の助っ人として人気者になったのが、2009年にロッテ入りした内野手のゲイリー・バーナム・ジュニアだ。
メジャー経験はないが、前年台湾のLa Newでプレーし、70試合で打率.323、10本塁打、56打点を記録。シーズン当初からロッテのボビー・バレンタイン監督にメールを送り、「日本でプレーしたい」と売り込んだ熱意が実り、秋季キャンプでの入団テストを経て、年俸1300万円で契約をかち取った。
1月末の来日時には採用のお礼を兼ねて、鉛筆で約15時間かけて描いた同監督の肖像画を持参。父親が農業を営む傍ら、画家として活動し、個展も開いていたという“血筋”から、肖像画も趣味の域を超えた出来栄えだった。この野球以外の才能もファンサービスに用いられ、「バーナム画伯の似顔絵講座」なるイベントも開催された。
そして、シーズンが開幕すると、左打ちのバーナム・ジュニアは相手が右投手のときに2番、7番、8番でスタメン出場。4月29日のオリックス戦で金子千尋から1号3ランを放つなど、4月終了時に打率.421をマークし、お買い得ぶりをアピールした。
だが、5月はわずか4安打と急降下し、6月には2軍落ちも経験。1軍復帰後の7月17日のソフトバンク戦で1ヵ月半ぶりの決勝号3号2ランを放ち、チームの連敗を「7」で止めたものの、開幕直後の好調を取り戻せないまま、打率.218、4本塁打、22打点でシーズン終了。34歳という年齢もあって、1年で戦力外になった。
だが、打率はともかく、四死球の多さから、出塁率.348をマーク。億単位の年俸を貰いながら、期待を裏切った助っ人もいることを考えると、1軍最低年俸(当時は1430万円)にも満たない条件で、よくやったと言えるかもしれない。
◆ 阪神の助っ人“ワースト記録”を更新
オープン戦で満塁本塁打を打ち、開幕直後も長打を連発したにもかかわらず、最終的に球団の助っ人のワースト記録を更新してしまったのが、2013年に推定年俸7000万円で阪神入りした両打ちの内野手、ブルックス・コンラッドだ。
前年限りで退団したクレイグ・ブラゼルの後釜と期待されたコンラッドは、2月23日のオープン戦、日本ハム戦でライト・大谷翔平の頭上を越えるチーム1号のアーチを放ち、「(スイッチは)右打席のほうが飛距離が出るけど、左でもあそこまで飛ばせる力がある」と和田豊監督を喜ばせた。さらに3月15日のDeNA戦でも満塁本塁打を放つなど、オープン戦で3本塁打、12打点を記録した。
そして、ヤクルトとの開幕3連戦でも、コンラッドは二塁打3本を含む11打数4安打を記録したが、その後、球団の1年目の外国人選手では、1972年のレオン・マックファーデンを更新する58打席連続無打点を記録し、4月22日に早くも2軍落ち。交流戦が始まった5月19日に1軍復帰も、7打数1安打5三振とまったく結果を出せず、5月30日に再び登録抹消されると、そのまま出場わずか24試合、打率.175、0本塁打の69打席連続無打点で退団となった。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
2024年05月14日 06:30
たった1球で勝利投手になる者もいれば、長いイニングを好投しながら、不運にも勝利を逃した投手もいる。
2024年05月14日 06:15
ソフトバンク・今宮健太が史上4人目の通算400犠打まであと20に迫った(5月13日現在)。これまでに400犠打以上を達成した3人、川相昌弘(巨人‐中日、533)、平野謙(中日‐西武‐ロッテ、451)、宮本慎也(ヤクルト、408)はいずれも貴重なつなぎ役としてチームの優勝、日本一に貢献している。そんな“バントの神様”たちの足跡を振り返ってみよう。
まず1990年に吉田義男(阪神)の日本記録を更新する通算265犠打を達成したのが、西武時代の平野だ。
78年に投手として中日にドラフト外で入団した平野は、2年目に外野手に転向、スイッチヒッターの練習を重ねていたが、ある程度形になりかけた矢先の80年オフ、整理リストに入ってしまう。
だが、監督が試合後半の守備を重視する近藤貞雄に替わったことで、外野の守備固め要員として首がつながる。翌81年は、オープン戦で補殺を演じたことがきっかけで、110試合に出場。2番打者としてレギュラーになった82年には、毎日マシン相手に200球近くバント練習に励んだ努力が報われ、当時の日本新記録51犠打を記録するなど、攻守にわたってチームの優勝に貢献した。さらに西武移籍後の88年から5年連続でリーグ最多犠打を記録している。
そして、93年6月17日の近鉄戦でNPB史上初の通算400犠打を達成した。
「『またバントかよと』と思ったことがあるし、逆に違うサインが出ると『打っていいの』と笑顔になりそうになったこともありますが、納得はしていました。(中略)バントは僕にとって生活手段のようなものですし、当時のチームは、僕が送ったあとクリーンアップが得点につなげる確率がかなり高かったからです」(自著「雨のち晴れがちょうどいい。」(ベースボール・マガジン社)
「本当は2番より足を使える1番のほうが好き」と言うように、86年に盗塁王を獲得するなど、通算230盗塁。打率3割も2度記録し(通算1551安打)、ゴールデングラブ賞にも9度輝いている。
◆ 「世界記録」を更新した川相昌弘
この平野の記録を1998年に抜いたのが、川相昌弘だ。岡山南時代は投手で、82年のセンバツでは早稲田実・荒木大輔と投げ合った。83年にドラフト4位で巨人入り後、内野手に転向。須藤豊コーチの猛ノックで鍛えられ、2年目の4月24日の大洋戦で遊撃手として1軍デビュー。翌85年6月13日のヤクルト戦で最初の送りバントを成功させた。
そして、球団史上初の背番号「0」を着けた89年、岡崎郁が三塁に回ったあとの正遊撃手を勝呂博憲らと争い、2番ショートの座をかち取る。
「相手に嫌がられる2番バッター」を目指した川相は、バント練習にできる限り多くの時間を割き、89年にリーグ3位の32犠打を記録。翌90年から4年連続リーグ最多犠打を達成するなど(通算7度)、“バントの神様”と呼ばれるまでになった。
チームが連覇した89、90年はいずれもケガのため、優勝決定試合に出られなかったが、藤田元司監督に「お前のお蔭で優勝できた」と声をかけられたときは、「どんな誉め言葉よりもうれしい一言」(自著「明日への送りバント」KKロングセラーズ)だったという。
バントにこだわりを持ちつつも、「バントだけの男とは思われたくない」と打撃にも精進し、94年には初の3割(.302)をマーク。攻守にわたって長嶋巨人の日本一に貢献した。
その後も地道にコツコツと“職人芸”を披露しつづけ、98年8月15日の阪神戦で平野の日本記録を更新する通算452犠打、03年8月20日の横浜戦では、エディ・コリンズ(アスレチックスなど)の世界記録を更新する512犠打を達成した。
同年限りで現役を引退し、コーチに就任するはずだったが、シーズン終了直前に原辰徳監督が電撃辞任し、コーチ人事も混乱が続いたことから、10月6日、引退を撤回し、巨人を退団。テスト入団した中日で2度の優勝に貢献し、犠打の世界記録も現役最終年の06年までに「533」に伸ばした。
◆ NPB史上初の“快挙”
平野、川相に次いで史上3人目の400犠打を達成したのが、宮本慎也だ。1995年に逆指名の2位でヤクルト入りした宮本は、守備は即戦力ながら、打撃は非力。当時の野村克也監督も「お前に8番ショートをやる。打率は2割5分でいいから」と指示している。
「守るだけの選手」の評価を何とか見返してやろうと誓った宮本は、野村監督がミーティングで口にした「脇役の一流を目指せ」の言葉を「自分が目指すべき方向」と確信。右方向への強い打球を意識しながら打力アップに努め、00年に初めて3割をマーク。その後も安打を積み重ねて、12年5月4日の広島戦で史上40人目の通算2000安打を達成した。
その一方で、若松勉監督時代に2番を打った宮本は、01年にシーズン67犠打の日本記録を達成するなど、バントの名手としても名を馳せた。だが、本人は「私にとっての送りバントは、プロの世界で生き残る、しがみつくための武器でしかありません」(自著「歩─私の生き方、考え方─」小学館)と記録にはこだわっていなかった。
そして、12年9月26日の阪神戦で、通算400犠打を達成。2000安打を記録した選手が400犠打を達成するのは、NPB史上初の快挙だった。
同一シーズンに大記録をダブルで手にした41歳のベテランは「フリーに打つ打席が400減っているのだから、そういう意味ではまあまあすごい数字かな」と語っている。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
2024年05月14日 06:00
元広島、近鉄の投手で変則左腕として活躍した清川栄治氏が5月5日、悪性腫瘍のため死去した。62歳だった。広島時代、投手コーチとして同氏を指導したデイリースポーツ評論家の安仁屋宗八氏は「彼は人間的に最高で選手のいいお手本だった」と手塩にかけた秘蔵っ子の早すぎる死を悼んだ。438試合連続救援登板は引退した1998年当時のNPB記録。
◇ ◇
体調がよくないと聞いて去年、連絡を取ったことがあったんですよ。でも、こんなに早く亡くなるとは…本当に残念で仕方がない。
清川という選手は非常に素直で、練習も真面目にコツコツやるタイプだった。特に上手投げからスリークオーター(肘の位置は徐々に下がっていった)に変えたときは必死になって取り組んでいた。
(1984年の)入団当初、球にキレはあっても制球力に欠けていたので、しばらくしてから私と同じような腕を下げた投法を勧めのだが、最初は気が乗らない感じだった。元来は左の本格派。腕を下げることに対し、故障の不安を含めて抵抗があったようだ。
しかし器用でもあり、決断してからは自分のものにするのが早かった。キャンプでは私も腕の位置を捕手の後ろから1球ごとに確認して、付きっきりで教えましたね。全体練習が終わっても1人残ってシャドーやネットピッチングを延々やってましたよ。
私がコーチとして育てた投手は山根(和夫)とこの清川ぐらいだが、清川は近鉄へ移ってから、より評価が高まったのではないか。
移籍先の近鉄では投手としてだけでなく、人としての振る舞いも評価されていたみたいでね。当時の仰木(彬)監督が清川の几帳面さを褒めてましたよ。
あるとき、藤井寺球場に出入りするクリーニング業者の担当が、わざわざ仰木監督に「清川さんの洗濯物を一度、見てください」と言いに来たらしい。
ユニホームを洗濯に出す際、シャツやソックスまで、必ずきれいに畳んで置いていると。仰木さんからその話を聞いて、彼の生真面目ぶりは広島時代から変わらないなと思いましたよ。
彼は他人の陰口は決して言わないし、悪く言われることもなかった。礼儀正しくてきれい好き。少し神経質な面もあったが、人間的に最高で選手のいいお手本であり、だれからも愛される好人物でした。
着物が似合い、書道の先生でもあるお母さんが広島を訪ねて来たとき、3人で食事をしたことがあった。目の前にいる親子を見て“いい家庭で育てられているな”と感じたその光景が思い出されるね。
まだ若いのに、また寂しくなるじゃないか。津田(恒実)といい、北別府(学)といい、清川といい…ものには順番があるんだから、ワシより先に死んじゃあいけんよ。
合掌
2024年05月14日 06:00
日本ハムの新庄剛志監督(52)が交流戦初戦の阪神戦(28日から3連戦)を控えて、現役時代に阪神の選手としてプレーした甲子園球場への思いを語った。「甲子園100歳でしょ?100年経ってるんだーって」と感慨深そうに話した。
「何が素晴らしいかって阪神園芸さん。その努力はずっと見てきているから。グラウンドの整備だけでなく、試合を真剣に見てくれているんです。だから僕、コーチに聞くよりも阪神園芸さんに聞いてますもん」と切り出した。紹介したのはプロ入り4年目の93年のエピソードだった。
「『僕どうなってます?』って聞いたら『もっと背番号をファンに見せてほしいね。丸くなっている。5番がしわしわになってるからまっすぐ立ったら?』っていうアドバイスを受けて、『そうなんだ』って」。打席に入る際のバットを真上に挙げて伸び上がるルーティンを披露し「そこから(ルーティンが)始まった」と明かした。
その試合でプロ入り初の2打席連続本塁打を放った。「苦手な広島の片瀬(清利)さん。シュートを打って、スライダーを打って。その景品をアドバイスくれた森さんにあげにいって。『そんなん要らんわ。もっとホームランをプレゼントしてくれ』って。そういう思い出はあります」と懐かしい目をした。
さらには甲子園を「メンタルを鍛えてくれた場所」と言う。外野スタンドのファンの声援もヤジも背中で受け止めてきた。「オレ、結構快感に受け取るタイプ。ああ、そういうヤジの仕方あるんだって。野球と関係なくね?って。よくフライデーされていましたからね」と笑った。
「今年、最後かもしれんしね。オレが」。1年契約で退路を断って戦っているだけに、意味深な発言ももらした。「かみしめながら戦いたい」。懐かしの聖地に監督として再び足を踏み入れる。
2024年05月14日 06:00
西武は13日、投手育成アドバイザーの清川栄治さんが、5日に悪性腫瘍のため東京都内の病院で死去していたことを発表した。
2024年05月14日 05:01
オリックス・平野佳寿投手(40)が13日、今月5日に悪性腫瘍のため東京都内の病院で亡くなった広島、近鉄で投手として活躍した西武の投手育成アドバイザー・清川栄治さんについて、球団を通じて思いを口にした。
07〜12年までオリックスで清川さんが投手コーチ、平野佳が投手という間柄で共にユニホームを着た。「みなさん優しい方ですが、僕が出会った中でも本当に優しい方でした。打たれた後もしっかりフォローをくださいますし、常に選手ファーストで、選手のためにやってくださるコーチでした」と当時を懐かしむ。
清川さんと接してきた中で、平野佳思い出す言葉がある。
「投げる最初の時に、一番頑張らないといけないのは右足の親指だよ」
この言葉を聞き、平野佳も納得する部分が多かったという。「確かにそこがブレてしまったら、その後も全てブレてしまいます。そこをしっかりと固めてプレートに掛けてから投げに行く、というのは今も僕は思っていますし、すごく良いことを教えていただいたと思っています」と話した。
メジャー挑戦時も、帰国のタイミングで練習施設に清川さんが足を運んでくれたことがあったそうだ。清川さんの死という現実を受け止めることが辛い。「すごくショックが大きかったです。本当にすごく優しいコーチでしたし、最後にもう一度お会いしたかったという思いがありますので。本当にさみしいという思いが強いですが、今は心からご冥福をお祈りしています」と話した。
2024年05月14日 05:01
体調不良で3試合連続でベンチを外れた阪神・桐敷拓馬投手(24)が13日、甲子園の投手指名練習に参加。早ければ15日・中日戦(バンテリン)から1軍に再合流する見込みとなった。
11日までにチームを離れ、遠征先の横浜から帰阪。「発熱と喉の痛みと。へんとうが腫れてしまった」と症状を明かした。この日はブルペンで28球を投じて、「多少(関節の)緩さというか。思った以上に問題なくは投げられたかな」と感触を確かめた。
岡田監督は「まだあかんみたい。明日はけえへん。(15日の)バンテリンからになると思う。熱が出たから関節とかなんかあれやろ」と、14日・中日戦(豊橋)も桐敷不在を明言。自己最長12試合連続無失点を続けているリリーフ左腕を少なくとも、あと1試合は欠いた戦いとなる。
2024年05月14日 05:01
14日の中日戦に先発する阪神・村上頌樹投手(25)が13日、狭い豊橋市民球場でも今季の武器となっているスローカーブは封印しないことを宣言した。今季3勝目へ。緩急を武器に中日打線に立ち向かう。
同球場は両翼93メートル、中堅115メートル。「引っ張ってもホームランが入るし、流しても簡単に入ると思う。そこは割り切っていくしかないかなと思っています」。一発を恐れずに腕を振る意気込みだ。
昨季の経験がある。23年5月16日は5回7安打4失点。打線の援護で勝利投手にはなったが、5点リードの五回に細川の適時打、石川昂の右中間への3ランで1点差に迫られた。「狭い球場というのは分かっている」と前回の経験を2年連続登板となる今回に生かす。
今季は6試合に登板して2勝2敗で、防御率は12球団で唯一の0点台となる0・88。抜群の安定感を誇る中で、武器となっているのがスローカーブだ。大竹が昨季から投げていたスローボールを参考に取り入れ、80キロ台と100キロ台の2パターンを使い分ける。今季は同球種を駆使し、試合を組み立ててきた。
狭い球場で遅球を使えば、本塁打を被弾するリスクは高まる。それでも相手に的を絞らせないためにも、緩急をつけられる武器は封印はしない。「しっかりといつも通りの自分の投球ができるようにしたい」と走者をためないことを心がける。
スローカーブは打者を翻弄(ほんろう)するだけでなく、調子のバロメーターにもなっている。「フォームが悪かったりしたら抜けたりする。でも、今はいい感じに投げられているので、そこはいいかなと思います」。今回も自信を持って遅球を投げ込む。
甲子園室内練習場でキャッチボールやダッシュなどで準備を整えた。14日から中日、ヤクルトと続く6連戦。12日・DeNA戦で完封した才木の勢いをつなぎ、チームを連勝へ導く。